薔薇の咲く庭



飲み仲間が五人、帰っても、店は安酒をあおる客でごった返している。コップに半分ほど残った酒を飲み干し、神庭義春は会計の紙切れをひょいとつまみあげた。仲間のいた出入り口付近のテーブル以外は空席が残っていない。狭い窓の外は暗闇に満ち、切れかけの街灯に蛾がまとわりついていた。
市街地から外れた、法外な値段を吹っかけてくる露天商が横行しているような街である。民家の広間くらいの酒場を見渡しても、まともな人間は一人もいない。ぼろきれにしか見えない服の男や赤線くずれの女、中には小指のない男もいる。戦争特需になってこっち富裕層は金を持て余していても、下を見ればこの有様なのだ。どんな酒でもうまくない。
煙草を灰皿で揉み消し、無精髭の生えた顎をさする。しめて六人分の飲み代を払える金などあるはずがなく、神庭は喉元で笑った。目尻の垂れた双眸は愛嬌があるのか、気がつけば周りに知人友人が増えていた。三十八になっても、気楽な性分が幸いしたのだろう、白髪頭にはまだ遠い。おまえは顔だけが取り柄だと昔から散々言われてきた。そのおかげで禍福ともに味わったが、得をしたほうが多いと神庭は思っている。
家もなければ金もない。空の財布は随分昔に川に捨ててしまった。部屋を追い出された女の写真も入っていたが、持っていたって一銭にもならない。身体一つあればこと足りるのだ。
紙切れをふたたび机に伏せ、神庭は席を立った。どんなに飲みたいときでも千鳥足になる前に切り上げるようにしている。そのくらいの理性を残しておかなければ、この手口は使えない。
「おい、あんた! どこ行く! 金ぇ払って帰れ!」
「……ありません、つーの」
さっさと出口に向かう神庭を目ざとく見つけ、カウンターの奥で店主が怒鳴った。これだけ客がいて、よくも見逃さないものだ。ざっと客の視線が集まったのにも神庭は構わず、扉に手をかけた。十二月の夜、外は寒いだろう。酒と賭博くらいしか娯楽らしい娯楽が見当たらないのだ。悪友たちと、こんなことばかりしている。
「誰かそのタダ酒野郎捕まえろ! 捕まえたら勘定タダだ!」
店主がドスの利いた声で続けるとにわかに店内が色めきだつ。扉を押すよりも先に、神庭は背中に殺到した男たちに取り押さえられた。
結局損だろそれ。二人がかりで馬乗りになって押しつけられ、神庭は床板の刺創を数えながら苦笑いする。体臭がきつく、眉をひそめる。年季の入った床には、短いものから長いものまで、不自然な切れ込みが散見していた。踏みつけられている手の傍には、血液が染み込んだような痕。その筋の経営者の店だとは知っていたが、ここまで物騒だとは予想外だ。
いっそ、ここで死んでもいいか。泥棒だの下衆だの好き勝手罵られ、自分という存在がどうでもよくなっていく。もともと、命が続いていたから自殺をしなかっただけで、特別生きていたいとは考えたことがない。三十八年。非道徳に歩んだ人生としてはじゅうぶんだ。首筋に怜悧な、冷えたものが当たる。よく斬れそうな刀だった。
「金がない奴は死ぬしかないね。どうしようもないねえ……」
「あくどいな、あんたよ。仲間先に行かして……常習か?」
刀を持っているのは店主のようだ。神庭が這いつくばっている間にカウンターから出てきたのだろう、馴染みらしい男と目配せしている。五人、逃がしておいてよかったと心底安堵する。最低な目に遭うのは一人か二人くらいでいい。刃の背が耳朶に触れる。ああ死ぬ。さすがに恐怖心が沸いてきた。
「――待ってください。少しその人と話があります」
「話? なんのだよ」
息を止め、目を硬く閉じた神庭の耳に、澄み切った、陶器のような声がすっと入ってきた。騒いでいた客はもとより、神庭を押さえ込んでいるごろつきや店主も口を閉ざし、室内が静まり返る。扉を空けた彼の顔は見えないが、足許の土埃一つついていない革靴だけで金持ちなのはわかった。着ているものの生地も、遥か昔に見て久しくご無沙汰だった高級品である。この男は誰だろう。あの頃の関係はすべて白紙になったはずだ。
「交渉をしましょう」
「あんた……」
男は神庭の傍に片膝をついた。高いスーツが台無しになる。言おうとして視線を持ち上げ、神庭は瞠目した。声ばかりでなく、およそ場末の酒場にいるのがそぐわない美青年が神庭の顔を覗き込んでいる。二十代前半だろうか、凛とした目許は切れ長で、長い睫毛が黒目を隠す。手指も肌も白く、肉体労働には無縁だと瞬時に判断できた。袖口から覗くシャツに、染みは一切ない。首筋をなぞる黒髪が、首を傾ぐ仕草に合わせて流れた。
綺麗な手で彼は店主を制し、神庭に語りかけてくる。
「僕は深海といいます。僕の提示する条件を呑んでくだされば、お代を持ちましょう。いかがです」
「……条件? どういう?」
不思議なもので、掴める距離に生存の術が転がっていると、人は手を伸ばしてしまうものらしい。首をもたげ、深海を見つめる。囚われたら最後、どこまでも溺れてしまいそうな、深淵の瞳をした男だ。その目がゆっくり近づいてきて、唇が、耳元に寄ってくる。
「僕を抱いてください。抱いてくれると、約束してもらえるならあなたを助けます」
「抱く? あんたを? こんな呑んだくれが?」
「ええ。条件は変えません。僕の屋敷に来て、僕を抱いてください。頷いていただけなければ、あなたを見捨てて帰ります」
感情の読み取れない、硬質でぶれのない口調だった。言い終えると深海は顔を引き、じっと神庭を見下ろしてくる。端整な面立ちと、肌理の美しい肌。上着を落とし、ネクタイをほどき、シャツを脱がせば甘い世界が広がっているのではないか。男と房事の経験は、神庭にはない。
「いいぜ。俺を助けてくれ」
首肯してから、深海が立ち上がって店主に一歩寄った。店主の足がびくっと怯む。
「あなたが店主ですか。代金は僕が支払いますから、物騒なものは収めてください。彼を解放していただけますか」
「ああ、はい、よろしいですともええ、どきます、どきます。では、はいお代を頂戴いたします」
我に返った店主は、声色をへつらいの調子に切り替えた。神庭から男たちが退き、ようやく床と離れられた。ただでさえみすぼらしい身なりが、埃のせいでさらに悪くなった気がする。
起き上がり埃をはたき落とし終える頃には完全に場は収束していたが、騒がしさは戻ってこない。会計を済ませた深海がすっと神庭の横についた。
「行きましょうか。ここは長居する場所ではなさそうですから」
神庭の返事も待たずに、深海は店を出てしまった。あわてて追い、触れた外の空気は予想よりも冷たい。なぜだか、ここで逃げおおせてしまう気は起きなかった。急に現れて命を救ってくれた美男を抱く。久々に乙な夜を過ごせそうだった。